- 書名:『終わらざる夏』 上・中・下
- 著者:浅田次郎
- ISBN:978-4087450781(上)、978-4087450798(中)、978-4087450804(下)
- 刊行日:2013年6月30日
- 発行:集英社文庫
- 価格:各630円(税別)
- ページ数:354(上)、326(中)、374(下)
- 形態:文庫
舞台は太平洋戦争末期の日本、1945年8月15日の敗戦まであと少しという時。日本軍は戦争が終わった時の各地での米軍との交渉役として英語が喋れる国民に対して召集令状を出す。
主人公は岩手県出身の招集年齢ギリギリの片岡直哉、彼は東京の洋書関連の出版社に勤めもうすぐ45歳を迎えようとしていたが、占守島の通訳要員として召集されることになる。
彼と共に招集された鬼熊軍曹(何度か召集を受けたが日中戦争で指を負傷し銃が握れなくなったため岩手に帰っていた)、医専を出たばかりの菊池少尉もともに占守島に赴くことになる。
太平洋戦争モノの小説なので、戦地に赴いてからのお話かと思っていたが、本書は参謀本部で各戦地に必要な人員の計算をするところ、そして参謀本部の指令が末端の各地方に行き召集令状が届くところ、そして召集された普通の人が戦場に赴くまでが丁寧に描かれる。
私の父は岩手出身なのだが、岩手出身者が主人公のため、モデルとなった人たちは私の父や祖父の知っている人たちなのではないか?と思いながら読んだ。
父は確か10人(くらいだったはず)兄弟の末っ子で、1948年生まれである。歳の離れた兄や姉がいて、父母を早い時期に亡くし一時は姉の家で暮らしていたとのことである。
父は大学に入るために上京し、それ以来ずっと東京に住んでいた。岩手の実家(お姉さんの家)には私が小さい頃に一度だけ行ったきりで父の家族の話を父から詳しく聞く前に父は死んでしまった。
父の兄弟や父の父(祖父)が徴兵されて戦争に行っていたかも知れず、本書に出てくる人たちと同じような状況で戦争に行っていたかもしれない。
一方私の母方の祖父は徴兵拒否をしたようで、戦争には行っていないそうだ。拒否といっても実際に拒否をできるはずはなく、おそらくニセの診断書などをでっち上げてもらったのだろう。その話を詳しく聞きたかったが私がそのことに興味を持つ前に祖父も亡くなっている。
本書は戦場に赴くまでを丁寧に描くので戦闘の場面はホントウに一瞬で終わる、実際の占守島の戦いも数日で終わったようであり本書の主役は戦闘ではない。
本書で描かれるのは実際に戦争に行った(行く)人間と、戦争に行かなかった(すでに行って戻ってきた人も含む)銃後の人間との差みたいものである。
戦場で死ぬのが一番きついけど、戦地よりは安全なはずの日本国内も結構きつかったのだと。
本書の主人公が赴くことになる千島列島の占守島は昔から住んでいる人間はほとんどいなく、あるのは鮭缶工場くらいのもの。何故、そこに赴く必要があるかというと、地理的に千島列島の端っこにあるのでアラスカが近くアメリカ軍が攻め込んでくるのではないかと日本軍が考え精鋭部隊を配置していたのである。
しかし目立った戦闘があるわけでもなく、さらに日本軍の劣勢が明らかになってくると周辺海域の制海権もおぼつかなくなってきたので、その精鋭部隊を他の戦地に転身させることもできなくなり、ほぼ無傷の日本軍部隊が北の島に残されているという形になっていたのである。
で、この占守島、終戦まで目立った戦闘があったわけでもなく、アメリカ軍も攻め込んでこなかったのになんで小説の題材になるのかというと、敗戦後つまり8月15日の少しあとにソ連軍が攻め込んでくるのである・・・
攻め込んできたソ連側の兵士も悲惨である、日本が負けたのになんで戦争をしなければいけないのか、何故かというとこの占守島で犠牲者を出しソ連と日本との戦後交渉を有利に進めて千島列島をソ連領にしようという目論見が働いていたようなのである。
無駄なことすんなよ、と思うが8月15日の後に実際に戦闘が始まってしまったのだからしょうがない。
私は実際に戦争になったら母方の祖父のようになんとしてでも戦争に行かないという選択をしたいが、実際にはどうなることだろう。
徴兵年齢なのに国内に残っているというのも色々な意味でキツいものがあるはずだ。
ちょと気になったので第2次世界大戦の戦死者数を調べてみたところ、wikipediaに「第二次大戦の犠牲者」というページがあった。
それによると当時の地球の総人口20億に対して、軍民合わせた地球上の総戦死者数が6000万から8500万人、割合にすると3.17%から4%になる。
日本は人口7138万人に対し、軍民合わせた総戦死者数は262万から312万人で、割合にすると3.67%から4.37%である。(日本軍として戦った朝鮮人、台湾人、中国人などが含まれているかは不明、朝鮮人・台湾人は含まれる?)
全国民の20人に1人の割合くらいで戦死しており、私の今勤めている会社のメンバーが20人ほどなのでそのうちの誰か1人が亡くなっているということになる。
ただ、会社には召集されないであろう40歳を超えたメンバーが4分の1くらいなので彼らが死ぬ可能性は低く、30代である私が死ぬ可能性の方が高いことになる。
また、第二次大戦時の日本軍は地域ごとに師団が作られその師団ごとに派遣される戦場が違うので、出身県や出身地域によっては戦死率は4%を大きく超えたところもあるかもしれない。
沖縄県は戦場になったので、戦死者の割合はかなりのものだっただろう。
「沖縄県平和祈念資料館」のページによると当時の沖縄県の59万人の人口に対し12万人ほどの民間人が犠牲となり、割合としては20%にもなる。これは会社を引き合いに出すよりも家族の方がわかりやすい、5人家族だったらそのうち1人が亡くなっているのだ。
つまり実際に地元が戦場になったらそういう結果になるのである。本書の占守島での戦いは前述のとおり地元民がほとんどいない状態で行われたので、死んでいった兵士たちも何のための戦いだかよくわからなかっただろう。
尖閣諸島での問題が取りざたされているが、あそこは住んでいる人がいないのでそんなに騒ぐなよと思う、日中台で仲良く漁業権と地下資源採掘権を分ければいいじゃないか。
本書の唯一の救いは占守島にある鮭缶工場で働いていた数百人の女子工員の多くがほとんど無事に北海道に帰ることができたというところである。よかった。
で、本書を何を感じたかと言うと、面白かった、というのもちょっと違う、まあ浅田次郎の小説なので面白かった、でいいかもしれないが、戦争で死んでいくのは名もない一般市民であり、というかもちろん名のある偉い人も死ぬのだけど、名のある偉い人はそれなりの覚悟と責任でもって戦争に対応しているわけであり、その人が死ぬのはまあしょうがない、でも名もない一般市民は覚悟ができてるわけでもなくというか名もない一般市民の名もない誰にも知られていない個人的内部的内世界があり、その個人的世界を生きている人たちがいやおうなしに戦争の舞台に登場し殺し殺される関係になっていく、という悲劇というものをなんつーか感じたのである。
つまりナニをいいたいかというと、戦争になるとそこらへんを歩いてるアンチャンやおっさんが戦場に行って、殺されたり殺したりをするわけである、大変じゃないか、え。
尖閣諸島の問題で勇ましい発言を繰り返しているアホな政治家やその取り巻きたちの発言を聞いてそうだそうだと言っている人たちよ、その勇ましいアホ発言が戦争を招くのかもしれないよ、そうしたら戦場で死ぬのは発言しているアホではなくあんただよ、ということである。
まあ、いいから、みんな冷静になれよ。