子供らのユートピアはたぶんどこかに作られたのだ 『黄金の騎士団』

黄金の騎士団

  • 書名:『黄金の騎士団 (上・下)』
  • 著者:井上ひさし
  • ISBN:978-4062777322(上)、978-4062777339(下)
  • 刊行日:2014年1月15日
  • 発行:講談社文庫
  • 価格:各690円(税別)
  • ページ数:377(上)、342(下)
  • 形態:文庫

数年前に新刊書店で本書が売られているのを見かけたが、未完であるのを理由に買わなかった。先日、渋谷のブックオフの100円コーナーの棚に上下巻が鎮座していたので買ってみた。

表紙に見覚えがあったので、買わなかったという記憶は間違いで、すでに読んでいるかなと思いかなり迷ったが、100円(正確には108円かける2冊で216円)なのでエイヤっと買ってみたが読んだことのない話だったのでよかった。

自分の育った孤児院が地上げにさらされ存続の危機にある!という連絡を受けた青年・外堀公一が、久しぶりに懐かしの孤児院をたずねるところから話は始まる。

経済的に大変なはずの孤児院・若葉ホームだが、ことあるごとに「黄金(きん)の騎士団」という謎の団体からの多額の寄付があると孤児院の子供たちは言う。

が外堀はその「黄金の騎士団」が子供たち自身であることを見破る。「黄金の騎士団」は先物取引でお金を増やす投資化集団であり、その目的は子供たちだけの国を作ること。投資でそのための資金を作っているのだった。

孤児、劇中劇、理想の国(ユートピア)など、井上ひさしの小説のキーワードとなるものがバンバン出てきて、本書は『吉里吉里人』の子供版と言った趣き。

『吉里吉里人』が日本という国から東北の一地方が独立するという、結構「暴力的な」お話だったのに対し、本作は儲けたお金で土地を買いその土地にユートピアを作るという、かなり「平和的」なお話になっている。

「黄金の騎士団」がモデルにするのはスペインに実際にあるベンポスタという子供だけの共同体で、そういう面でも本作は『吉里吉里人』に比べるとかなりリアルというか平和的。

惜しむらくは本作は未完、子供らの買おうとした山村の土地を保安林に指定して掻っ攫おうと目論む悪徳政治家と投資家をニセの資金集めパーティーを開いて、そのパーティーの中でお芝居をして彼らを騙し、悪巧みを白日の下にさらそう!という計画が進められている途中で下巻が終わってしまうのだ。

この劇中劇は実際に書かれていたらおそらく1冊分くらいの分量になっていたかもしれず、この本は上下巻ではなく上中下巻になっていただろう。

適切なたとえかどうかわからないが『マルドゥック・スクランブル』でのカジノのシーンがおそらく本作の資金集めパーティにあたる、カジノのシーンは『マルドゥック・スクランブル』の上中下の中にあたり(上中下というくくりではないけど)、そう考えると『黄金の騎士団』はマルドゥック・スクランブルでの上巻までしか書かれておらず、すでに出ている上下巻を1巻2巻とすると6巻まで出ることになる。

作者の井上ひさしが亡くなっているので続きが書かれることはないのだろうが、気になるなぁ。資金集めパーティでの劇中劇は絶対面白いはず、誰か書いてくれないか、あ、『マルドゥック・スクランブル』の話を出したから冲方丁でどうだろう。

全く違う話になりかねないが、いい線行くのではなかろうか。『マルドゥック・スクランブル』も主人公は子供だしね、孤児ってのも似てる、さらにすごい才能があるってのも。

さらにカジノでお金を稼ぐのもお金が欲しいわけではなくて、ライバルの秘密を暴くため、って結構似てるじゃん、この2作、ねえ。

未完の小説というのはおそらく作家の数かそれ以上あるだろうが、未完の物語が世に出ることは少ない。

未完だから商品になりにくいし、作者が生きていたら自分の作品が未完で出版されるのはうれしくないだろう。

未完の物語は、その未完の物語が商品になるという判断が下されないと出版されないのであり、その判断が下されるのは作家の死後が多いのだ。

井上ひさしの小説が未完のまま出版されたということは、死後も「作家の知名度」が高く、ということは「作家の書く作品のクオリティを信じているファンがある程度いる」と言うことであり、さらにその作品がある程度「現代的」であり、その未完の作品が「作家の書いた人気作品のクオリティにある程度迫っている」ということである。

本作は「作家の書いた人気の作品のクオリティにある程度迫っている」という判断が下されているわけで、その人気作品は言うまでもなく『吉里吉里人』であろう、設定が結構似ているからね。

で、どっちが面白かったのか?と聞かれれば、『吉里吉里人』と答えるしかない。何故なら完結しているからである。ハッピーエンドではなかったが、未完のお話は完結しているお話には勝てない。

でも未完のお話には希望がある、つまりまだ終わっていないということ。『吉里吉里人』では日本にユートピアを作るのは不可能だ!という結論が出たが、『黄金の騎士団』には日本にユートピアを作るのは難しいかもしれないけどできないことではない、という希望がある、うん、希望があるってのはいいことだ。

私はフィンランドのアキ・カウリスマキという映画監督の作品をこよなく愛するのであるが、彼の作品の多くは全てハッピーエンドを「匂わして」終わる、単純なハッピーエンドではなく、「希望」を見せるのだ、「どうなったかは想像してね、悪い結末にはなってないはずよ」とカウリスマキは観客に語りかけるのである。

つまり本書はそういう読み方のできる井上ひさしの数少ない作品のひとつかもしれない。

うん、希望があるってことは結末がハッピーエンドであること以上に美しいのだ、たぶん。本作の書かれなかった結末では「黄金の騎士団」のユートピアが日本のどこかに彼らの手によって作られているハズである、そう、そういう「希望」を想像することが大事なのだ、うん。