[caption id=”attachment_1604” align=”alignnone” width=”600”] 信長影絵[/caption]
- 書名:『信長影絵(上・下)』
- 著者:津本陽
- ISBN:978-4167904012(上)、978-4167904029(下)
- 刊行日:2015年7月10日
- 発行:文春文庫
- 価格:各600円(税別)
- ページ数:312(上)、345(下)
- 形態:文庫
津本陽の代表作『下天は夢か』(講談社文庫版だったはず)を読んだのは大学生の頃だったろうか、いや高校生だったか。今から20年くらい前の1990年代後半ということになる。
今調べて知ったのだが、『下天は夢か』はバブルの頃に日本経済新聞に連載されてベストセラーになっていたようで、私はその数年後に文庫化された作品を読んだことになる。信長という革新的なリーダー像がバブルの社長たちに大いに受けたのであろう。
『下天は夢か』は信長の生涯がかなりキレイに描かれていて、10代の私は参ってしまった。つまり面白かったのだ。
津本陽いいじゃん、となりそれから彼の戦国時代小説である『武神の階』(主役:上杉謙信)とか『乱世、夢幻の如し』(主役:松永久秀)とか『宇喜多秀家 備前物語』とか、それ以外の名前をよく覚えていない作品を読んだが、とくに印象はなし、期待が大きかった分だけ落胆も大きかった。
つまり『下天は夢か』以外の小説はまったく面白くなかった、ああ津本陽は信長を題材にしなきゃダメなのかなと思っていた。で、本書である。
結論としては結構いい線行っている、『下天は夢か』と比べるとどうかと聞かれれば、若い頃に読んだ鮮烈な印象が残ってしまっているのでそりゃあ負けてしまうのだがいい線行っている。
本作品の描く期間は信長の尾張統一と桶狭間から本能寺の変までというオーソドックスなもので、『下天は夢か』とほぼ同じなはずである。
羽柴秀吉もそうなのだが、信長も晩年が暗い。文禄・慶長の役という大迷惑とは少し違うが、尾張統一の頃には持っていた少しの明るさみたいなのが消えて些細な罪で部下を斬ったり左遷したりとひどいものである。
人を信じることができず、人は裏切るものという前提で部下たちを見ている、部下からしたらたまったものではない。信長が何故そのようになってしまったのかというと、話はかなりシンプルで、母の土田御前に愛されなかったから。母の愛は本作のテーマと言ってもいいくらいである。
つまり母の愛に恵まれなかったため、弟の信行を謀殺し、浅井長政・久政・朝倉義景のしゃれこうべを薄濃にし、本願寺の門徒を虐殺し、比叡山を焼いた、ということなのである。
そうか、非常にシンプル。
本作は信長のお話なのでもちろん本能寺の変が出てくる。で、謎としては新しい見解というものではないものの、光秀に襲われるということを信長が予知していたのでは?という仮説が新鮮であった。
桶狭間の戦い、金ヶ崎の退陣、姉川の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻め、全て自分と敵の運命を賭けた大博打であった。そういう負けたら即破滅、というようなギリギリの戦いにこそ信長は自分の生きがいを見つけていた(ようなのである)。
たしかに、本能寺の変の起きた1582年には強力なライバルであった武田信玄、上杉謙信、本願寺などは既になく大博打を打つような戦いはもうしていなかった。
信長は丸腰の状態を光秀に見せつけることによって、光秀が襲い掛かってくるかどうかのゲームをしていたようなのである、でも実際に命張っちゃうのか、まわりは大迷惑だぞ。
私だったらやっぱり死にたくない、支配者の孤独がそうさせるのだろうか、うーん。
『下天を夢か』を読んで膨らんだ津本陽に対する期待は、それ以外の作品を読んで見事にしぼんでしまったが、本書を読んで信長モノならいけるのかもという期待が少し膨らんだ次第である。