本能寺には丸腰で行こう 『信長影絵』

[caption id=”attachment_1604” align=”alignnone” width=”600”]信長影絵 信長影絵[/caption]

  • 書名:『信長影絵(上・下)』
  • 著者:津本陽
  • ISBN:978-4167904012(上)、978-4167904029(下)
  • 刊行日:2015年7月10日
  • 発行:文春文庫
  • 価格:各600円(税別)
  • ページ数:312(上)、345(下)
  • 形態:文庫

津本陽の代表作『下天は夢か』(講談社文庫版だったはず)を読んだのは大学生の頃だったろうか、いや高校生だったか。今から20年くらい前の1990年代後半ということになる。

今調べて知ったのだが、『下天は夢か』はバブルの頃に日本経済新聞に連載されてベストセラーになっていたようで、私はその数年後に文庫化された作品を読んだことになる。信長という革新的なリーダー像がバブルの社長たちに大いに受けたのであろう。

『下天は夢か』は信長の生涯がかなりキレイに描かれていて、10代の私は参ってしまった。つまり面白かったのだ。

津本陽いいじゃん、となりそれから彼の戦国時代小説である『武神の階』(主役:上杉謙信)とか『乱世、夢幻の如し』(主役:松永久秀)とか『宇喜多秀家 備前物語』とか、それ以外の名前をよく覚えていない作品を読んだが、とくに印象はなし、期待が大きかった分だけ落胆も大きかった。

つまり『下天は夢か』以外の小説はまったく面白くなかった、ああ津本陽は信長を題材にしなきゃダメなのかなと思っていた。で、本書である。

結論としては結構いい線行っている、『下天は夢か』と比べるとどうかと聞かれれば、若い頃に読んだ鮮烈な印象が残ってしまっているのでそりゃあ負けてしまうのだがいい線行っている。

本作品の描く期間は信長の尾張統一と桶狭間から本能寺の変までというオーソドックスなもので、『下天は夢か』とほぼ同じなはずである。

羽柴秀吉もそうなのだが、信長も晩年が暗い。文禄・慶長の役という大迷惑とは少し違うが、尾張統一の頃には持っていた少しの明るさみたいなのが消えて些細な罪で部下を斬ったり左遷したりとひどいものである。

人を信じることができず、人は裏切るものという前提で部下たちを見ている、部下からしたらたまったものではない。信長が何故そのようになってしまったのかというと、話はかなりシンプルで、母の土田御前に愛されなかったから。母の愛は本作のテーマと言ってもいいくらいである。

つまり母の愛に恵まれなかったため、弟の信行を謀殺し、浅井長政・久政・朝倉義景のしゃれこうべを薄濃にし、本願寺の門徒を虐殺し、比叡山を焼いた、ということなのである。

そうか、非常にシンプル。

本作は信長のお話なのでもちろん本能寺の変が出てくる。で、謎としては新しい見解というものではないものの、光秀に襲われるということを信長が予知していたのでは?という仮説が新鮮であった。

桶狭間の戦い、金ヶ崎の退陣、姉川の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻め、全て自分と敵の運命を賭けた大博打であった。そういう負けたら即破滅、というようなギリギリの戦いにこそ信長は自分の生きがいを見つけていた(ようなのである)。

たしかに、本能寺の変の起きた1582年には強力なライバルであった武田信玄、上杉謙信、本願寺などは既になく大博打を打つような戦いはもうしていなかった。

信長は丸腰の状態を光秀に見せつけることによって、光秀が襲い掛かってくるかどうかのゲームをしていたようなのである、でも実際に命張っちゃうのか、まわりは大迷惑だぞ。

私だったらやっぱり死にたくない、支配者の孤独がそうさせるのだろうか、うーん。

『下天を夢か』を読んで膨らんだ津本陽に対する期待は、それ以外の作品を読んで見事にしぼんでしまったが、本書を読んで信長モノならいけるのかもという期待が少し膨らんだ次第である。

20年前の小説とは思えない 『ダイヤモンド・エイジ』

ダイヤモンド・エイジ

  • 書名:『ダイヤモンド・エイジ(上・下)』
  • 著者:ニール・スティーブンスン
  • ISBN:978-4150115524(上)、978-4150115531(下)
  • 刊行日:2006年3月20日
  • 発行:ハヤカワ文庫SF
  • 価格:各840円(税別)
  • ページ数:447(上)、438(下)
  • 形態:文庫

この本を初めて読んだのはたしか7年前。ちょうど前の会社に入って1年ばかり経っていて、業務でプログラミングを始めた頃のことだ。当時私はプログラミングのド素人だったが、誰にも余計な口を挟まれずに、毎日プログラミングの本を読みながら楽しく仕事をしていた。

プログラミングが楽しくて仕方なかった、そんな黄金時代は1年ほどで静かに終わりを告げ、私の業務は誰かに口を挟まれる楽しくないものになっていった。会社の業績が悪くなり始めたのだ。

その後も会社の業績はゴンゴン下がり続け、遂に会社が潰れるかもしれないとなり、私は今の会社に転職した。

今の会社に入って1年近く経ったが、7年前のプログラミングが楽しくて仕方なかった時期に少しだけ戻ったような充実した仕事ができている。ああよかった。

で、そんな時期に再度本書を読み直した。

舞台は21世紀中葉の中国の上海周辺、技術の進歩から今までの国民国家という枠が取り払われ、世界の人々は信条や趣味などに分かれた種族に属して暮らしていた。

三大種族のひとつである新アトランティスに属する技術者ハックワースは、支配層である「株式貴族」から「若き淑女のための絵入り初等読本(プリマー)」の開発を依頼される。

「若き淑女のための絵入り初等読本(プリマー)」は子供向けのインタラクティブ(相互作用的なという意味)な機械で、操作する人によって内容がダイナミックに変わる高度なRPGゲームのようなものが入ったiPadみたいなものだ。

株式貴族は自分の孫の将来に不安を抱き、プリマーを使って孫を逞しく(肉体的にというわけではなく色んな意味で)育てられないだろうか、と考えたのである。

そのプリマーを偶然にも少女ネルが手に入れた事から物語が始まる。プリマーは最初3個のコピーが作られ、ネル、フィオナ(ハックワースの娘)、エリザベス(株式貴族の娘)の3人が所有することになるのだが、プリマーを一番使いこなし、かつプリマーに飽きて放り出したりしなかったのは環境的には一番恵まれていないネルだった。

ネルの父はネルが産まれる前に死に、兄と母親とは離れ離れになり、ネルはプリマーを通して話しかけてくる女優ミランダの中に母親的存在を見出し、ミランダもネルを娘のように思い始める。

ネルの「母親探し」、ミランダの「娘探し」、そしてハックワースの「自分探し」の物語を縦軸に、ナノテク、MC(マターコンパイラー)、ラクティブ(没入型のインタラクティブ劇)、ナノテクで空に浮かぶ建物、シェバラインなどの未来の乗り物などSFとしてのガジェットを横軸に本書は展開されていく。

あと、印象的なガジェットというか物語の核となるような存在なのがフィードである。MC(マターコンパイラー)は原子を使って色んなモノを作り出す機械なのだが、そのMCに素材となる原子を提供するのがフィードである。

で、そのフィードはソース(水源のようなところ)から街まで川のように流れているのである。って、どういうこっちゃ、まあつまり水道水を供給するみたいに、フィード(原子の素材?)が街まで流れてきて、街に流れてきたフィードは各家庭に小さなフィードのラインに分かれて供給されていくのである。

物語の語られ方は「若き淑女のための絵入り初等読本」が劇中劇のような役割を果たし、現実と本の中との事が交錯し、ズルズルと引き込まれる。

初回にも感じたことだが、「非常に今っぽいな」と思った。プリマーはスマホだし、MC(マターコンパイラー)は3Dプリンターであるし、ラクティブは今流行のVRだ。主人公の一人であるネルはプリマーに没頭するのだが、プリマーは今の私にはスマホ(iPadか)に見える。

この小説の発表は1995年、なんと20年近く前である、その時に書かれたものがこれぐらいい今っぽいというのも驚きである。逆に世界は20年近く何も変わっていないということなのか。

ニール・スティーブンスンは『ダイヤモンド・エイジ』の次に書かれた『クリプトノミコン』以来日本での訳書の発売がないが、早く翻訳して出してくれないかハヤカワさん。

Nexus 5Xが欲しいけど 番外編「Nexus 5の後継機はAcer Liquid Z530に」

Nexus5 Acer Liquid Z530

Nexus 5からNexus 5Xに乗り換えようと模索したが、結局キャリアをY!mobileからmineoに乗り換えて端末はNexus 5のままにしたのが今年(2016年)の1月。月額代金が3,000円近く下がり、ウハウハだったのであるが、そのころよりNexus 5の電池が悲鳴を上げ始めた。

なんか調子が悪いなと思ってあまり使っていなかったQiでの無接点充電を行ったのが逆に悪かったみたい(実際に悪かったかは不明)で、どんどんとバッテリーの調子は悪くなった。

AmazonでNexus 5の「純正品」バッテリーパックを売っていたので買ってみようかと思ったが、レビューを見ると純正品とは名ばかりで実際には1500mAhのバッテリーらしく(本物は2300mAh)、さらにバッテリー自体に当たり外れがあるらしく使い物にならないものが届くと悲惨なことになる、ということが書かれていてバッテリー交換をして余命を延ばす案も暗礁に乗り上げた。

で、結局新しい端末を買うしかないかとなった。しかしNexus 5Xを買わなかった(買えなかった)のは予算が大きな理由というか一番というか唯一の理由だった私であるので、新端末を買うとしてもNexus 5X(5万円くらい)は買えないし、というか使えるのは1万円、いやそれじゃろくなものが買えないので出しても2万円だ、あーでも2万円は非常にきつい。

と色々悩んで、色々探して候補にあがったのが「ZTE Blade V6」と「Acer Liquid Z530」。

スペック的に両者はかなり似通っていて、前者が17,000円程度、後者が21,000円程度であった。

ネット上の評価を見るとAcer Liquid Z530のバッテリーの評価が高く、この価格帯のスマホの中では動きも軽快と書かれていた。

で、ビックカメラに行ってみて、2機種を比較してみたところ確かにAcer Liquid Z530のほうがZTE Blade V6に比べてヌルヌル動く。というか他の高スペックのSIMフリースマホと比べても動きは遜色ないというかむしろいい。

ということで、ZTE Blade V6より4,000円ほど高かったがmineoでもらったキャッシュバックのAmazonポイント3,500円分を使って21,000円から17,000円強になったAcer Liquid Z530をAmazonで購入した。

2、3日で端末が届き、Nexus 5から乗り換えを行った。

Acer Liquid Z530はバッテリーがよい

で、確かにZ530、バッテリーがよい、100%まで充電すれば会社の行き帰りに軽くブラウジングするくらいなら2日は持つ。

さらに、これはなんかのトリックかもしれないのだがなかなか100%から下がらない、何時間も残充電量が100%を保っている。

私のNexus 5もかつてはこれくらいバッテリーが持ったのかもしれないが、もうよく覚えてない。出会った頃のことなんて。

ヌルヌル動く感はNexus 5と比べるとやはり落ちる、Nexus 5がiPhoneにちかいヌルヌル感つーかiPhoneをキビキビとさせた感じ、と比べるとうーむである。

だが、ヌルヌル処理をあえてあきらめているからなのか、キビキビっとは動く。途中のアニメーションを省略した感じの速さだ。FPSがどうかとかはよくわからないが、Nexus 5がFPS60とするならZ530は30か40くらいかという感じである。

あとプリインストールのはAndroid OSはまだ5.1で、まだ6.0にはなっていないし、アップデートされるのかもよくわからないが、AcerのAndroidカスタマイズは可もなく不可もなくといった感じで、まあ悪くない、not badツー感じ。

下記がNexus 5と Acer Liquid Z530のスペック比較である。

- Nexus 5 Acer Liquid Z530
キャリア Y!mobile(旧EMOBILE) SIMフリー
製造 LG Acer
ディスプレイ 5.2インチ 5.0インチ
解像度 1920 x 1080 1280 x 720
サイズ(mm) 137.84 x 69.17 x 8.59 144.0 x 70.3 x 8.9
重さ(g) 130 145
CPU Snapdragon 800 MSM8974 2.26GHz(クアッドコア) MediaTek MT6735 1.3GHz (クアッドコア)
RAM 2GB 2GB
ROM(内部ストレージ) 16/32GB 16GB
外部ストレージ - あり microSDで32GBまで
OS Android4.4→6.0 Android5.1
通信方式 3G LTE 4G LTE
無線LAN IEEE802.11a/b/g/n/ac IEEE802.11a/b/g/n
カメラ リア:800万画素(手ぶれ補正あり)/イン:130万画素 リア:800万画素(手ぶれ補正あり?)/イン:800万画素
バッテリー 2300mAh 2420mAh
FeliCa - -
NFC あり -
ワンセグ/フルセグ/赤外線 - -
非接触充電(Qi) 対応 -
USB Micro-B Micro-B
SIM ロック フリー フリー
本体価格(2016/6/8現在) ¥29,900(中古) ¥20,990(新品)

フルHDではないし、カメラもいまいちではあるが

スペック表を見てもらえばわかるが、Nexus 5の画面がフルHDなのに対し、Z530はHD、画素数では倍近い開きがある。実際にしっかり見比べてはいないがNexus 5より画面がキレイとは言えない感じだが私のNexus 5は2年半使い込んだものなので、実際には新しい分Z530の方がパッと見キレイには見えるので画面はあまり気にならないだろう。

一番オヤ?と思ったのがカメラである。Nexus 5に買い換えた時(HTC ISW13HTから乗り換えたのだがHTCは液晶がキレイだったのでスマホで撮った写真を見るとHTCのがキレイに見えた)も思ったことではあるが、あまりカメラがよくないのかなと感じた。

カメラの画素数はNexus 5と同じ800万画素ということだが、室内だとセンサーが少し死んでいるのかもしれないなというくらいの写り具合。実際にNexus 5で撮った写真をPC上で見比べてみたところ、Nexus 5の方がやはりキレイ。

室内は光が少ないうえに逆光になり勝ちなので、Nexus 5のカメラセンサーの方が優秀ということだろう。逆に言うと順光の屋外での昼の撮影ならあまり差は気にならない。スマホのカメラ性能が気になる方にはオススメできないが、そうでないならあまり気にするなというレベルかもしれない。

Acer Liquid Z530で地味にうれしいのが、Nexus 5では使えなかった外部メモリーが使えるというところ。32GBまで使えるというので早速私も32GBのmicroSDカードを買って挿して使っている。なお計算単位が違うとかで32GBをさしても認識されるのは29GB程度になるのでご注意。

あと、結構気になる大きさと重さであるが、大きさはZ530の方が少し大きいが差はあまり気にならない。Nexus 5をジーンズの尻ポケットに入れるのと、Z530をジーンズの尻ポケットに入れるのとの差はほとんどない。

重さもほぼ同じで、Z530の方が少し大きい分軽く感じる。

で、結論

買ってよかったかよくなかったかというと、買ってよかった。スペックではNexus 5には少し劣るがAcer Liquid Z530の方が新しいので互角と言ったところ。

美人の彼女と別れた後に、それより若い彼女に出会って、若さと目新しさに目がくらんでいるという状態と言ったらたとえがひどすぎるか。

でもまあ、2年も付き合ったら美人でも飽きるわけだし、少し不美人でも新しい方がいいということもある。結局乗り換えるってのは乗り換える行為自体が楽しいっつーのもあるんで、やっぱし乗り換えてよかったなと思った次第である。

たぶん高いお金を払ってNexus 5Xに乗り換えていたらこんなに穏やかな気持ちでモトカノ(Nexus 5)と今カノを比較できなかっただろうな、とも思う。

連載終了 「NEXUS 5Xが欲しいけど」バックナンバー

  1. 「理想と現実」
  2. 「Nexus 5のままでいいのか?」
  3. 「Nexus 5、Nexus 6、Nexus 5X、Nexus 6Pのスペック比較してみた」
  4. 「Android6.0は何が変わった?フォントだよ!」
  5. 「Y!mobileでの月額料金が決定・・・」
  6. 「買わないことにした」
  7. 「買わないことにしたけど、欲しくなる」
  8. 「(Nexus 5Xが買えない)Nexus 5ユーザーに送るNexus 5Xとのスペック比較」
  9. 「さよならY!mobile」
  10. 「やっぱりさよならY!mobile」
  11. 「欲しい端末が出てきた?けど」
  12. 「ついにMNP予約番号をって、取れないじゃん・・・」
  13. 「MNP予約番号を取得!そして格安SIMに申し込んだ」
  14. 「格安SIMに乗り換え完了、Nexus 5をしばらく使う予定」
  15. 「Nexus 5の後継機はAcer Liquid Z530に」(番外編)

隆慶一郎の最高傑作はテレ朝時代劇にピッタリ 『鬼麿斬人剣』

鬼麿斬人剣

  • 書名:『鬼麿斬人剣 』
  • 著者:隆慶一郎
  • ISBN:978-4101174129
  • 刊行日:1990年4月25日
  • 発行:新潮文庫
  • 価格:514円(税別)
  • ページ数:358
  • 形態:文庫

山窩(サンカ)として生まれた鬼麿が、師匠である刀工源清麿(きよまろ/すがまろ)の駄作を折るために諸国を放浪?する非常にわかりやすい時代小説。

清麿が臨終の際に鬼麿に託した願いは、昔あるいざこざから伊賀忍軍から逃げるハメになり諸国を渡り歩いていた時に作った数打ちの刀(駄作の刀)を折る、ということ。その願いをかなえるため、鬼麿は刀探しの旅に出る。

鬼麿は名前の通りの怪物のような大男で、彼の必殺技は目をつぶって大刀を大きく振りかぶって上から打ち下ろす異色かつダイナミックなもの。鬼麿に付き従うのは山窩(サンカ)の少年・たけと伊賀の抜け忍くのいち・おりん。

鬼麿が師匠清麿の駄作を見つけるとその周りには複雑な人間模様があり、そこには大体において悪いやつがいて、駄作を折ろうとするとその悪人が邪魔をする。最後には鬼麿が悪人を叩き斬り、「ためしわざ、潜り袈裟」、「ためしわざ雁金」などの決め台詞が入る、非常にテレビ時代劇チックというかわかりやすい。本書は8話からなり、各話は大体そんなような流れで進んでいく。

見てくれは悪いけど、人情に弱くて腕っぷしが強いヒーローはテレビ朝日の時代劇枠でドラマ化したら大当たりするんではなかろうか?

隆慶一郎の代表作である『一夢庵風流記』も諸国を放浪して悪いやつをこらしめる、という似たような話だが、あの話は主人公の前田慶次郎がカッコよすぎるし、男と男の義の繋がり!とか男の生き方!みたいのが汗臭く時々しつこくて鼻につく。その点本作は非常にシンプルで男と男の義の繋がり!みたいのも出てくるには出てくるがそれが本題にはならない、主役はあくまで師匠である清麿の「刀」であり鬼麿の必殺技である。

私は隆慶一郎の作品を読むと、お腹いっぱいになってしばらく同じ作者の作品は読みたくない!となるのだが、本作は隆慶一郎作品では珍しく、続きが読みたくなった。作者自身は既に亡くなっているので続きが書かれる可能性は無いが、誰か書いてくれないだろうか続きを、宮本昌孝あたりでどうだろう。

だから、本書は私にとっての隆慶一郎の最高傑作である。(『影武者徳川家康』も捨てがたいけど)

戦に負けたらどうするのか、本多政重みたいに奔走するのだ 『生きて候』

生きて候

  • 書名:『生きて候(上・下)』
  • 著者:安部龍太郎
  • ISBN:978-4087460049(上)、978-4087460053(下)
  • 刊行日:2006年1月25日
  • 発行:集英社文庫
  • 価格:600円(上・税別)、571円(下・税別)
  • ページ数:346(上)、311(下)
  • 形態:文庫

本書の主人公は本多政重、徳川家康の懐刀であった謀将・本多正信の息子であり、本多正純の弟でもある。

本書を読むまでこの本多政重についてまったく知らなかった、本多正信の息子は正純だけだとも思っていた。

本多政重は子供時代に本多家と同じ徳川家の家臣である倉橋家に養子に出され、倉橋家の人間として成長する。養父である倉橋長右衛門の死後、徳川秀忠の近習を斬り殺す事件を起こし親友の戸田蔵人とともに徳川家を出奔するのである。

その後前田利家からの依頼を受け、慶長の役の現場である朝鮮半島に赴く。そこで日本軍に虐げられる朝鮮の民衆を目の当たりにし、一度は日本に帰るものの、慶長の役を終わらそうと奔走し再度朝鮮半島に渡り日本の撤退作戦に貢献する。

豊臣秀吉が死に、天下騒乱の気配が濃くなってくると西軍である宇喜多家に身を投じ、関が原の戦いでは旧主家康と父・正信を追い詰める戦いを仕掛ける。

西軍が東軍に負けるや、今度は主君である宇喜多秀家を助けるために薩摩の島津家に赴き、宇喜多秀家の受け入れを要請する・・・

とにかく政重は走る、走る、愛馬の大黒に乗って走る、誰かが困っているとその人のためにとにかく頑張るのである。

で、この政重、頭脳派の本多正信の息子のくせにめっぽう強い、政重が主人公の小説なので当たり前なのだが、冒頭で前田利家に負けるくらいで誰にも1対1では負けない。

本作と似たようなとにかく強い主人公が出てくる戦国物で一番に思い浮かぶのが前田慶次郎(利益)の『一夢庵風流記』だが、あれは戦国の政治とはあまり関係ないところで諸国を漫遊するという体のお話なので緊張感にかける、本作は戦国の生々しい政治の裏舞台を愚直に生き抜いた豪傑「本多政重」の一代記なのである。

これくらい波乱万丈で、さらに戦国を生き抜いた本多政重はもっと有名でもよいいのにと思ったが、戦国が終わり江戸の世になるとこのように主君をころころと代える戦国時代の申し子のような政重の話は徳川的な倫理感とはかけ離れていて講談などにもしにくかったのだろう。

本多政重は宇喜多秀家助命嘆願のあとに、再度前田家に仕えることになるようだが、その話は本作ではほとんど触れられていない。また大阪の陣では真田幸村(信繁)に負けて幸村伝説に花を添えることになるようだが、その話も本作には出てこない。

本多政重の生涯のお話というか、この小説の続きをぜひ安部龍太郎には書いてもらいたい。タイトルが地味だからタイトルを一新して再度文庫化し人気が出たところで続編を書くというのはどうだろう。

絵を描く人は文章がうまいのか 『東京ラブシック・ブルース 』

東京ラブシックブルース

  • 書名:『東京ラブシック・ブルース 』
  • 著者:沢野ひとし
  • ISBN:978-4041813089
  • 刊行日:1998年7月25日
  • 発行:角川文庫
  • 価格:495円(税別)
  • ページ数:293
  • 形態:文庫

本作は正しい青春バンド小説。主人公は沢野ひとし本人と思われる少年で、冒頭は沢野ひとしのおそらく実際の高校時代のエピソードが挿入される、少年は高校を辞め米軍基地のカントリーバンドに入り、そこで魅力的なバンドマンたちと出会い、恋もして、そして挫折と旅立ち・・・というお話である。

沢野ひとしは椎名誠の高校時代からの友人であり、謎の絵を描く画家としても有名である。本書のカバーイラストも本人によるものである。

数年前までは本屋の角川文庫コーナーに名前が出ていた(作家名の書かれたカードが棚にささっていた)が最近は見かけない。本を出してはいるようだが、角川文庫からはもう出ていないようである。

大学時代に友人から薦められて椎名誠を読むようになったのだが、最初に読んだ『哀愁の街に霧が降るのだ』に出てきた登場人物の中で一番強烈で愛すべきキャラクターがこの沢野ひとしであった。(『哀愁の街に~』は椎名誠の自伝的小説なので実在の人物が登場する)

ヌボーっと背が大きくて、手足をバタバタさせて(椎名誠の表現)いつも女性に恋していてすぐにフラれるが、けしてもてないわけではない、というなんだかほっとけないキャラクターが沢野ひとしであった。

本屋に行くと椎名誠の隣あたりに沢野ひとしの本も並んでいた(角川文庫コーナー)ので自然に手に取るようになり、椎名誠の本にハマるのと同時並行的に沢野ひとしの本にもハマった、椎名誠の本に沢野ひとしが出てきたり、その逆もあったりと楽しい読書であった。

椎名誠の本の中では珍獣のような扱いを受けている沢野ひとしだが、その珍獣の書く本の文章は『哀愁の街に霧が降るのだ』での乱暴でガサツな印象とは違い、かなり繊細でやわらかい。最初、アレレ?と思った。仮にも本を出している人に言うのは失礼だが文章がうまいなと思った。

つげ義春の書く文章に少し似ていると思ったが、絵を描く人は文章がうまいのであろうか。

つげ義春のマンガと文章は受ける印象がほとんど一緒である、つげ義春の世界に没入するとマンガを読んでいるのか、小説を読んでいるのかは、ハっと我れにかえって自分の持っているマンガなり本なりを裏返して表紙を見てみてやっと気づくみたいな感じである。

で、沢野ひとしであるが絵の印象と文章の印象は全く違う、と思うときもあるしやっぱりつげ義春と同様文章のやさしさが絵に染み出しているな、みたいに思うときもある。

彼の描く前を向いているのか横を向いているのかよくわからない目だけ凶暴な動物の絵からと、彼の文章から受ける印象を比べれば結構違うのであるが、風景画や山の絵などを見るとうーむと唸ってしまう。

で、何が言いたいかと言うと、文章がうまいのである、って作家に失礼か。

でも私が一番気に入っているのは『本の雑誌』の中に不定期連載のように掲載されている沢野ひとしの謎の四コママンガである。この四コママンガは居酒屋の宣伝として描かれているので今後まとめて出版されることはないであろう、いつこの四コママンガが無くなるかもわからないので今のうちに読んでおくことをオススメするのである。

子供らのユートピアはたぶんどこかに作られたのだ 『黄金の騎士団』

黄金の騎士団

  • 書名:『黄金の騎士団 (上・下)』
  • 著者:井上ひさし
  • ISBN:978-4062777322(上)、978-4062777339(下)
  • 刊行日:2014年1月15日
  • 発行:講談社文庫
  • 価格:各690円(税別)
  • ページ数:377(上)、342(下)
  • 形態:文庫

数年前に新刊書店で本書が売られているのを見かけたが、未完であるのを理由に買わなかった。先日、渋谷のブックオフの100円コーナーの棚に上下巻が鎮座していたので買ってみた。

表紙に見覚えがあったので、買わなかったという記憶は間違いで、すでに読んでいるかなと思いかなり迷ったが、100円(正確には108円かける2冊で216円)なのでエイヤっと買ってみたが読んだことのない話だったのでよかった。

自分の育った孤児院が地上げにさらされ存続の危機にある!という連絡を受けた青年・外堀公一が、久しぶりに懐かしの孤児院をたずねるところから話は始まる。

経済的に大変なはずの孤児院・若葉ホームだが、ことあるごとに「黄金(きん)の騎士団」という謎の団体からの多額の寄付があると孤児院の子供たちは言う。

が外堀はその「黄金の騎士団」が子供たち自身であることを見破る。「黄金の騎士団」は先物取引でお金を増やす投資化集団であり、その目的は子供たちだけの国を作ること。投資でそのための資金を作っているのだった。

孤児、劇中劇、理想の国(ユートピア)など、井上ひさしの小説のキーワードとなるものがバンバン出てきて、本書は『吉里吉里人』の子供版と言った趣き。

『吉里吉里人』が日本という国から東北の一地方が独立するという、結構「暴力的な」お話だったのに対し、本作は儲けたお金で土地を買いその土地にユートピアを作るという、かなり「平和的」なお話になっている。

「黄金の騎士団」がモデルにするのはスペインに実際にあるベンポスタという子供だけの共同体で、そういう面でも本作は『吉里吉里人』に比べるとかなりリアルというか平和的。

惜しむらくは本作は未完、子供らの買おうとした山村の土地を保安林に指定して掻っ攫おうと目論む悪徳政治家と投資家をニセの資金集めパーティーを開いて、そのパーティーの中でお芝居をして彼らを騙し、悪巧みを白日の下にさらそう!という計画が進められている途中で下巻が終わってしまうのだ。

この劇中劇は実際に書かれていたらおそらく1冊分くらいの分量になっていたかもしれず、この本は上下巻ではなく上中下巻になっていただろう。

適切なたとえかどうかわからないが『マルドゥック・スクランブル』でのカジノのシーンがおそらく本作の資金集めパーティにあたる、カジノのシーンは『マルドゥック・スクランブル』の上中下の中にあたり(上中下というくくりではないけど)、そう考えると『黄金の騎士団』はマルドゥック・スクランブルでの上巻までしか書かれておらず、すでに出ている上下巻を1巻2巻とすると6巻まで出ることになる。

作者の井上ひさしが亡くなっているので続きが書かれることはないのだろうが、気になるなぁ。資金集めパーティでの劇中劇は絶対面白いはず、誰か書いてくれないか、あ、『マルドゥック・スクランブル』の話を出したから冲方丁でどうだろう。

全く違う話になりかねないが、いい線行くのではなかろうか。『マルドゥック・スクランブル』も主人公は子供だしね、孤児ってのも似てる、さらにすごい才能があるってのも。

さらにカジノでお金を稼ぐのもお金が欲しいわけではなくて、ライバルの秘密を暴くため、って結構似てるじゃん、この2作、ねえ。

未完の小説というのはおそらく作家の数かそれ以上あるだろうが、未完の物語が世に出ることは少ない。

未完だから商品になりにくいし、作者が生きていたら自分の作品が未完で出版されるのはうれしくないだろう。

未完の物語は、その未完の物語が商品になるという判断が下されないと出版されないのであり、その判断が下されるのは作家の死後が多いのだ。

井上ひさしの小説が未完のまま出版されたということは、死後も「作家の知名度」が高く、ということは「作家の書く作品のクオリティを信じているファンがある程度いる」と言うことであり、さらにその作品がある程度「現代的」であり、その未完の作品が「作家の書いた人気作品のクオリティにある程度迫っている」ということである。

本作は「作家の書いた人気の作品のクオリティにある程度迫っている」という判断が下されているわけで、その人気作品は言うまでもなく『吉里吉里人』であろう、設定が結構似ているからね。

で、どっちが面白かったのか?と聞かれれば、『吉里吉里人』と答えるしかない。何故なら完結しているからである。ハッピーエンドではなかったが、未完のお話は完結しているお話には勝てない。

でも未完のお話には希望がある、つまりまだ終わっていないということ。『吉里吉里人』では日本にユートピアを作るのは不可能だ!という結論が出たが、『黄金の騎士団』には日本にユートピアを作るのは難しいかもしれないけどできないことではない、という希望がある、うん、希望があるってのはいいことだ。

私はフィンランドのアキ・カウリスマキという映画監督の作品をこよなく愛するのであるが、彼の作品の多くは全てハッピーエンドを「匂わして」終わる、単純なハッピーエンドではなく、「希望」を見せるのだ、「どうなったかは想像してね、悪い結末にはなってないはずよ」とカウリスマキは観客に語りかけるのである。

つまり本書はそういう読み方のできる井上ひさしの数少ない作品のひとつかもしれない。

うん、希望があるってことは結末がハッピーエンドであること以上に美しいのだ、たぶん。本作の書かれなかった結末では「黄金の騎士団」のユートピアが日本のどこかに彼らの手によって作られているハズである、そう、そういう「希望」を想像することが大事なのだ、うん。

本能寺以降の秀吉の話は暗い 『秀吉の枷(上・中・下)』

秀吉の枷

  • 書名:『秀吉の枷(上・中・下)』
  • 著者:加藤廣
  • ISBN:978-4167754037(上)、978-4167754044(中)、978-4167754051(下)
  • 刊行日:2009年6月10日
  • 発行:文春文庫
  • 価格:各600円(税別)
  • ページ数:333(上)、348(中)、347(下)
  • 形態:文庫

加藤廣の本能寺3部作の第2作目『秀吉の枷(かせ)』である。前作の『信長の棺』は大田牛一が主人公だったが、タイトルのごとく本作の主人公は羽柴秀吉。

桶狭間の戦いで織田軍団を勝利に導く秘策を信長に授けた秀吉はそれをきっかけに出世の階段を上る、信長から本能寺からの抜け穴を作ることを密かに命ぜられた秀吉は明智光秀が謀反を起こそうとしていることを知りその抜け穴をふさぐことを前野長康に命じる。織田軍団のライバルたちを倒し天下を取った秀吉だが、本能寺の抜け穴を埋めた後ろめたさが彼の後継者問題に暗い影を落とすのだった・・・

というような流れで本書は進んでいく。

本書の軸は桶狭間の戦いから本能寺の変にいたるまでの秀吉の心の変化、なのであるが、そこらへんのことは前作の『信長の棺』でも匂わされていたので、本書ではその種明かしをするという感じである。

本能寺の抜け穴埋め事件が何故起きたのかは、桶狭間の戦いのあとに秀吉が信長に3つのお願いをし、それが全て守られなかったからなのであり、そのお話は同著者の『空白の桶狭間』の方が詳しいし、さらにお話もそっちの方が面白い。

なので本書はあくまでも種明かし的な感じが強い物語で、読むのなら『空白の桶狭間』の方が断然面白い、さらに本作は晩年の秀吉に筆がかなり割かれているので暗い、暗いったら暗い、晩年の秀吉は千利休や秀次などに切腹を命じたり、悪名高い文禄・慶長の役を起こしたりと、とにかく暗いのだ。

ただ、本シリーズで面白いと思ったのが秀吉の思想的な背景をしっかりと描いているところである。

秀吉の前後の天下人である2人が対照的なイメージのため(神をも恐れぬ無神論者の信長は左な感じ、鎖国政策と忍耐が有名な家康は保守的で右な感じ)、秀吉はその2人に挟まれて思想的にも左でも右でもなく中道という印象を持っていた。

しかし、秀吉を山の民出身とすることで、秀吉は天皇を頂点とする神道的な思想を強く持っていたのでは?という仮説が面白い、そう来るか、そうなのか。

で、本作は3部作の2部作目ということで3作目になる『明智左馬助の恋』はどんなお話になるのであろうか、お話的にはこの『秀吉の枷』で終わりという感じがするのだがまだ続きがあるのか、何か秘密があるのなら楽しみ。

裏稼業の人間が本番前にインフルエンザになったらどうするのか 『ギャングスターレッスン ヒートアイランド2 』

ヒートアイランド2 ギャングスターレッスン

  • 書名: 『ギャングスターレッスン ヒートアイランド2 』
  • 著者: 垣根涼介
  • ISBN: 978-4167686031
  • 刊行日: 2010年4月10日
  • 発行: 文春文庫
  • 価格: 619円(税別)
  • ページ数: 343
  • 形態: 文庫

前作『ヒートアイランド』の結末ではアキが柿沢と桃井の仲間になるかどうかはわからなかったが、やはりと言うべきかアキはその誘いを受けた。

ギャングスターレッスンという名前の通り、アキが柿沢と桃井のもとで裏稼業の実地訓練を行い、実際の仕事をするのが本作である。

垣根涼介の作品なのでもちろん車が出てくる、主人公の一人である桃井は開店休業中ではあるがチューンショップのオーナーでありエンジニアであり、その桃井からアキが車のチューニングを教わるシーンも出てくるし、そのシーンの登場人物たちはとても楽しそうである。

前作を読んでいる前提があるであろうが、かなり安心して読める物語であった、今回は確か人も死なない。

インフルエンザにかかり、自宅の二階で苦しんでいる状態で読んだのだが、彼らのような裏稼業の人間たちは実行前にインフルエンザにかかったりしたらどうするのだろうか、緊張しているからインフルエンザにかかったりはしないのか。

「犯罪者 インフルエンザ」でGoogleで検索してみるとなんか出てくるかなと思って調べてみたが「インフルエンザ感染者は犯罪者扱い?」みたいなタイトルのページばかり上位にやってくる。

感染するだけで犯罪になるのか、であれば感染させたらさらに重罪か、つーかどうやって感染経路を実証するのかって馬鹿らしい。

というか「犯罪者 インフルエンザ」という検索ワードがいけないな、じゃあ「アウトロー インフルエンザ」でどうだ。うーん私の気になるような検索結果じゃなかった。

じゃあ「本番前 病気」でどうだ!うーん。ダメか。

誰も気になっていないから誰も何も書いていないのか、いや気になっている人はいるはず、ここに一人いる、私が。

で、私が裏稼業の人間だったと考える、まずインフルエンザになったかもと思ったらどうするか。

保険証はダミーのものかもしれないから、本物の自分の保険証を使うかどうかまず迷う、いやそもそも病院に行くかどうかに迷う、この病院は警察関係者が多いとか、タレこみ率が高い!とかタレこみ率ってそんなもん誰が調べて発表しているのかわからないが裏稼業の回覧板みたいなのでそのタレこみ率が高い病院がリストアップされているのだ、たぶん。

まあでもつーことは裏稼業用の病院みたいなのはあるはずで、そんな病院が開業すると裏稼業の回覧板にお知らせが出るのである。だからその病院が自分の家から近いかが問題になるのだろうが、おそらく裏稼業の方々はある程度まとまった地域に住んでいるはずである、人の出入りがあまりない田舎ではなくて、ある程度出入りのある都市部ってこと、だから東京なら都下ではなく都内であり、人口密度の高いところに住むのであろう、深夜の出入りも不審がられないような、つーことは都内のタワーマンションみたいなところか。

そうかああいうところに住んでいるのか、ってたぶん違うか。まあつまり裏稼業の方々がまとまって住んでいるとしたらその地域にはそれ専用というか裏稼業歓迎の病院があって、そういうところに行くんだろうな。

おそらくそういうところだから保険証とかもなくて、カードに個人情報も記入させない、医者も患者もマスクにサングラスで相手がわからないようにしている、名前を呼ぶときも番号で呼ぶので名前はバレない、さらに誤診などをしたら裏稼業の人たちがお客さんだから大変で、医者は緊張感のある中で仕事をしているので腕はいい。

人に言いにくい病気などになったら私も行きたいかも、顔も見られないし名前も呼ばれないって結構いいじゃん。

以前、股間が腫れてしまい泌尿器科に行ったことがあるのだが、アレは結構恥ずかしい、さらにその病院は泌尿器科以外もやっている病院なので女性も何人か居てどんな顔で待合室で待っていたらいいのやら、なんつーか大変だった。

結論、裏稼業の人たちがインフルエンザになったら裏稼業の回覧板に載っている病院に行く!のだ。たぶん。

スパイ小説における銃器が垣根涼介の小説の車 『ヒートアイランド』

ヒートアイランド

  • 書名:『ヒートアイランド』
  • 著者:垣根涼介
  • ISBN:978-4167686017
  • 刊行日:2004年6月10日
  • 発行:文春文庫
  • 価格:676円(税別)
  • ページ数:466
  • 形態:文庫

ヤクザの経営する違法カジノを襲った3人組の1人が渋谷のストリートギャングの一員に襲われ、大金が盗まれたことから物語は始まる。

主人公は渋谷のストリートギャングのボス・アキ、そしてアキのギャングチームを追い詰めるカジノ強奪犯の柿沢と桃井が裏の主人公。

垣根涼介の物語に必須なのがチューニングを施された玄人好みの車、本作にももちろんそれが出てくる。垣根涼介はアウトロー小説ではなく、車のチューニングの話だけを書きたいのではないかと思うくらい、登場人物に車の話をさせているパートの熱量がすごい。

スパイ小説でも銃器の細かい話やウンチクが語られるし、それがスパイ小説のウリのひとつになっているのかもしれないが、垣根涼介の小説における車はスパイ小説における銃器とほぼ同じような役割を果たしている気がする。

つまり絶対に離せないのだ、垣根涼介の小説から車を引いてしまったらスパイ小説から銃器がなくなってしまうのと一緒なのだ、だからストーリーが進まない。

さらに垣根涼介の小説の主人公になるには資格があって、車が好きじゃなきゃいけないみたいなのだ、なんでってそう決まっているのである。

スパイ小説のエージェントも銃器が好きでしょ、あと探偵小説の主人公もだいたい女にもてるし、警察小説なら大体警察組織は腐敗してる、江戸モノ小説なら腐敗してるのは幕府や越後屋だし、経済小説でも政府が腐敗してたりする、私小説だと不倫してたり、まあつまり垣根涼介の小説における車というものはストーリーと切っても切れないものなのである。

マンネリの元になるかもしれないし、車が特に好きではない女性の反応とかを気にするとあまり車に関してページを割けないと普通の作家なら考えるのだろうが、垣根涼介の車に対する熱量が物凄いからなのか普段車を運転しない私も「楽しそうだな、車欲しいな」と思ってしまうくらいのパワーがある(ミニ四駆やラジコンで遊んでいた車好き少年だった下地はありますが)。

独身時代に読んでいたら車買っていたかもって思うくらい、車の話になるととにかく楽しそうなのである。

でも結婚前にこれ読んで車買ってたら結婚できなかったかも。