- 書名:『ダーウィンの子供たち(上・下)』
- 原題:Darwin’s Children
- 著者:グレッグ・ベア(Greg Bear)
- ISBN:978-4863322752(上)、978-4863322769(下)
- 刊行日:2010年9月18日
- 発行:ヴィレッジブックス
- 価格:上下ともに880円(税別)
- ページ数:409(上)、399(下)
- 形態:文庫
本書を購入したのは5年ほど前のことだと思う、買ってから今までずーっと我が家の本棚のSFコーナーに鎮座していたが、遂に読むこととなった。本には賞味期限みたいなものがある、で、その賞味期限は発売や刊行された日付とは関係なく、本屋でその本を購入した日から賞味期限のタイマーがカチカチと回り始めるのだ。
大体買った日より1週間程度でかなり鮮度が落ち、1ヶ月も経つと干物になる。で、干物でも味が出ればいいが、鮮度が命の本なんかだと干物になっちまったらもうおしまいみたいなことがある。
本書をずーっと本棚で干物にしていた理由は、パッケージの印象の薄さと題名である。
「ダーウィンの子供たち」か、ふーん、ダーウィンということは進化論で、子供たちが何らかの進化・変化をしてそれが大人たちにとって大変な脅威になる、というような話であろうな、著者のグレッグ・ベアは『ブラッド・ミュージック』っていう遺伝子操作により知的生命体が人類の身体の中に宿る話を書いているのでそれと似てるんだろうな、と思ったのだ私は。
で、読んでみてその予想はあまり外れなかった。
気になったのが、登場人物たちの名前である。ステラとミッチとケイという3人家族が本作の主要人物なのであるが、誰が母で、誰が父で、誰が娘か、名前からわかるだろうか。
最初私は全員女性の名前ではないかと思った、正解は母はケイ、父がミッチ、ステラが娘である。
まあ言われればそうだという気になるし、何がどうしたと言う風に感じるかもしれないが、そこはかとない違和感を感じたのだ私は。
それ以外の登場人物も身体的な特徴や性別から受ける印象と名前が一致しなかった、頻繁に登場するウィルスハンターのクリストファー・ディケンはインディ・ジョーンズみたいなカッコいいおじさんを想像したが、なんでディケンか、なんで「ン」で終わるか。
唯一、ミセス・カーラ・ラインという女性だけはなんとなく名前の印象と物語内での描写に齟齬が少ないと思ったが、呼び方が「カーラ」だったり「ライン」だったりするので、誰だかわからなくなる、って物語内で登場人物が他の人物に呼びかけるのに苗字や名前を使い分けるのはしょうがないし、呼び方を変えるのは物語を語る上でのアクセントになったりもするし・・・
苗字・名前問題というのは翻訳モノであろうが、国内モノであろうが常について回る問題である。
織田信長が出てくる戦国小説では、彼のことを「織田」とは言わない、織田と言ってもどの織田だ?信長?それとも父の信秀?いや子供の信雄、信孝?となってしまう。
だが、明智光秀だと、「明智」と呼び捨てにしてもあまり差し支えはない、なぜなら明智性の有名人があまりいないのでおそらく光秀のことであろうと読んでる人は思ってくれる(はず)。もちろん江戸川乱歩の小説になると意味が違ってくるってどうでもいいか。
たとえばドラえもんに出てくる野比のび太。彼を仮にAとする。
Aは作中ではお母さんやドラえもんには「のび太」と呼ばれ、先生からは「野比!」と言われる。この場合、A以外の登場人物はどちらも違う音でAのことを呼んでいるのであり、よくわからない人がその2つのシーンを見たら、「のび太」と「野比」は違う人間のことを指していると思うかもしれないが、どちらも同じAを指して呼んでいるのである。
読者はAの苗字+名前が「野比のび太」であることがわかっているので、Aが名前で呼ばれても苗字で呼ばれてもAが呼ばれているということがわかるのである。
で、読者に登場人物の苗字+名前を知らせるにはAは「野比のび太」でありますよとどこかで説明しなければいけないのだが、これは1回くらい説明したところでは誰も覚えなくて、ことあるごとにAは「野比のび太」だよと教えておかなければならない。
たとえば主題歌に苗字+名前を入れて、「そーらを自由に飛びたいな!はーい野比のび太君にタケコプター!」とか。
「野比のび太」に選挙活動をさせて「野比のび太、野比のび太に清き一票を!」と連呼させたり。
毎回、のび太にケガをさせ、病院の待合室で「野比のび太さん、どうぞ」と言われるように仕向けたり。
主人公が毎回テストで0点を取り、テスト用紙の名前欄に「野比のび太」と入っているシーンが冒頭に流れる、ってこれはドラえもんでよくあるシーンか。
まあ、作者は手を変え品を変え、読者に登場人物の名前を覚えさせないといけないのである、これが何の説明もないと、野比ってだれ?のび太って?そんな面白い名前のやついるわけないじゃん、みたいな風に思われるのが関の山なのである。
話は本書に戻るが、その苗字+名前で登場人物を説明することが本書には少ないように感じるのである。
その音を耳にすると、ディケンはおもむろに銃を手に取り銃口を覗き込んだが、いきなり咳き込んで彼の肛門からおならが出た
という描写が本書599ページにあるのだが、ディケンって誰だっけ?となってしまう。
その音を耳にすると、クリストファー・ディケンはおもむろに銃を手に取り銃口を覗き込んだが、いきなり咳き込んで彼の肛門からおならが出た
という風にすればいいのである、たった8文字「クリストファー・」と入れてくれればいいだけなのだ。
みたいなことをずっと考えてしまい読書に集中できなかった、登場人物のフルネームは結構頻繁に出してくれていいと思うのだ、20ページに1回くらいは出していいはずなのだ。海外翻訳ものの小説には最初の方のページやカバーの折り返しに登場人物表があるが、あれも役に立つ時もあれば立たない時もあり、今回は役に立たなかった、というか小説を読んでいる時にたびたび前のページに戻って名前確認なんて読むテンポが悪くなっちまうのだ。
あとから知ったのだが、本書は『ダーウィンの使者』という物語の続編だったようだ、だから登場人物が誰なのかわかりにくかったのか・・・
SF作品としては、同じ著者の『ブラッド・ミュージック』と比べちゃうとかわいそうに感じるが、まあそんなに悪くないよ、という感じだった。
電子書籍版を購入して、OCR(画像内の文字をテキストデータに変換する技術)にかけて、さらに人物名をフルネームに全置換してから読みたかった。